昭和五十六年四月三日 朝の御理解
御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
「目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが」と言うておられるところを、例えば目に見えん所は神が見ておるぞとおっしゃる。この辺の所をまあ今日は大変こう厳しく私は感ずるのですけれども。
いかに神様が、私共の言うておることしておること、または善しも悪しも神様が一目瞭然に見ておって下さって、言わば仕置きを与えねばならないものは仕置きを与えられ、褒めて下さるというか、それと反対のことの場合は、それだけの言うならばお徳というご褒美を下さる。この辺の所を私共が心で殺すとか、または実際に殺したり傷つけたりということだけではなくて、神様はそういう言うならば厳しいお方であり、天地の中にはそういう、何と申しましょうか法則のようなものがあるんだと。
人間の世界には、例えば警察法なら警察法、税法なら税法という法があって、それを間違えると、警察法に訴えられることになり、咎められることになるのです。天地にはそれよりももっともっと正確な絶対の間違いのない言わば法則というものがあって、そこん所が神が見ておるぞとおっしゃるのはそういうことだと思うですね。
だから、私共がこれは良いこととか悪いこととかということは、私共では実際は分からん。まあ道徳的に言うて来たことなんかでも、例えばこれは道徳的だと、道徳的だとこう言うとっても、神様の目からご覧になれば、非道徳であるかも分かりませんし、結局神様の言わば法則というのは超法則なんですやはり。超道理なんですから。もう神様の前にはどうにもごまかしはきかんということになります。
そこでまあ思うのですけれども、昨日は高橋さん所のまあ恒例の宅祭がございました。私はいつも出ます時に、神様にお届けして参ります。今日はどう言うようなことを分かってもらったら、どう言うところにヒントを得て、お祭後のお直会といわれるお話をさして頂こうかと思ってお礼をさしてもらうんですけれども、昨日ここで頂いたのは、漢字で『四』と頂いた。一、二、三、四の四、そしてそれを「し」と読まずに「よん」と読むとい
う御理解を頂いたんです。
あちらへ、ここを丁度三時に発ちましたから、あちらで随分時間がございました。私と一緒に正義先生の運転で参りましたから、日田の綾部さんとそれから繁雄さんとまあ四名で参りましたわけですから、お祭前時間があってま結局世間話になったんですけれども、私は出掛けにこういうことを頂いたち言うて三人してお茶頂きながら話したことでした。そしたら、正義先生が、「実は私もしきりと朝からそのことを考えておりました」とこう言うんですよ。
先だってから購入さして頂いた車が、四四四の四で、しししの四という車である。私はそん時に本当に思いました。これは久富建設であってよかったと。これがもしよそに行ったら、この車は非常に皆から嫌悪されて嫌われる車であったろうと。言うなら縁起でもないと言うふうに取られて、言わばこの車が皆から嫌悪される、嫌われたであろうと。久富建設であってよかった。
そのお届けに出て参りました時に、丁度長女の豊美がここで御用しとったそうですから、豊美先生がお祓いして下さる時に、「ほりゃあよか番号ですね、よん、よん、よんで」ちいうて言われたち、成程よん、よん、よんと言うたら良いので、けども、し、し、しとこう言うたら、何とはなしにいやな言わばものですけれども。お道の信心はどこまでもね「し」を「よん」と頂くこと。普通では悪と言われるものでも、それを良(りょう)、良しで頂くこと。そういう心の使い方。
例えば金光教では、何でも四(よん)ですね。拍手も四つでしょうが。だから最高の言うならば最高に悪いと普通では言う。なら世界の十三日ですら合楽に来たら、もう神愛の日として頂き切っているでしょうが。言うならば一番悪い日、縁起の悪いと言われる四(し)なら四という字を四(よん)で頂いたら、今度は却って有難いということになってくるのです。そういうような昨日のことでございましたが。
信心さして頂いて、私共の心が自由自在に有難い方へ有難い方へと有難いで頂かせて頂けれる心の内容というものが出来る。そういう稽古なんです金光教の信心は。これは有難いこれは有難くないということはない。
そしてあちらへ参りましてからすぐ頂いたのが、丁度私の控えにしてあるお部屋に私が書かせて頂いておった色紙がこう額に入れてあった。それが「天に任せて地にすがれ」とある。天という字は大きく、天地を大きく、その下に小さく「天に任せて地にすがれ」と書いてある。
それから神様にお礼申させて頂いたら、神様のお部屋の横に、やっぱり私が書いて上げとった色紙ですけれども「徳積みて栄える家や菊の花」という、これは御理解なんです。まあ句でもあります。「徳積みて栄える家や菊の花」。
今高橋さんのお宅は、大変今もう本店、まあ本店は閉めてあります。それが支店の方から大変逼迫した状態にある。あれほど行き届いた信心をされる。あれだけ熱心な信心をされるのにどうしたことだろうかと、まあ皆も思われ、また高橋さんを知っておる人ならば
、皆そのことを知っておられますから、皆さんが一生懸命お祈り添えを下さっておられる。あれほどの信心をされる。どうしてだろうかと思うことが、私は初めてその「徳積みて栄える家や」という、いよいよ徳を積んで、その徳の上に立ち上がる今後の三福寿司ということになるのであろうと思うた。
してみると、そんならば今までは言うならばどういうことになりましょうか。不徳とか悪徳とか申しますね。悪徳じゃないです。悪徳というのは言うならば人を殺しても金儲けすることなら、金になるこつならどげなこつでんするというのが、こりゃあ悪徳でしょうね。けれども不徳の上に積み上げた財産というものは、こりゃあ本当に分からなきゃいけないと思うですね。
ただ信心もなし、ただ、私は以前、高橋さんから聞かせて頂いた話なんですけれども、三福寿司がどんどん、その、そうしてまあお父さんは、まあ寿司界ですかね、あの食界では九州では一番偉い方なんです。そういう役をしておられるわけ。ですがその三福寿司始められた頃は、もう本当こげん儲かって良かろうかという時代があったということだそうですね。
だから別に、なら悪徳、金儲けのためならどげなこつでんするといったような意味で儲けられたのじゃないけれども、ならそれだけを頂けるだけの徳のない上に打ち立てたのが三福寿司だと言うこと。言うなら不徳の上に立ち上がった三福寿司であった。親の代は良かった。けれどもなら子供がそのために大変な難儀をしなけりゃあならない。それを私はめぐりだとこう思う。
この辺の所が今日の御理解のように、神様は絶対に見過ごしはなさらないということ。いかにもこの財産を億万、それこそ今時は億万と言うでも何十億というような財産な財産をですよ。子のために孫のためにというて残したら、それが子が孫が重荷になってくる。言うならばい菌がついたぼた餅を残しておくようなもの。美味しそうにしとるが、食べたらそれで言うなら子供が苦しむといったような。子供が孫が、子孫の者が苦しむことのために、言うなら金儲けをしておる。繁盛しておるというのなら、こりゃあ真の信心から、こげな気の毒な話はないです。
自分の財産を作った、残したと思うけれども、子供の苦労を思うたら、本当に不徳の上に立ち上がる財産ではなくて、徳を積んでその徳に現われてくる所の財産でなければ、言わば子にも孫にも、言わば子々孫々に繁昌の一途をたどるというようなおかげになってこない。これをこういうことをですね、人間の皆が分かったら、世の中は素晴らしかろうと思いますけども。
とにかく人の茶碗を叩き落としてからでも自分がままになろうとする生き方ね。もうそれを飽くことを知らないというのが現在の言うならば状態じゃなかろうか。そういう中にあって、もうそれこそそういう中にあって、たった合楽の人達だけがそこを分かっておるとまあ皆さんが思うてもらいたいと思うです。その一番大事な所を教えて頂いておると思うです。
そこで私共、昨日私あちらでお話しさせて頂く中に、お話しをしたことでしたけど。この頃から、長女の佐多恵さんというのが大学卒業致しました。だから卒業の時には皆結局こう何ですか、良い着物を着てまあ式に臨むわけでしょうけれども、もう買ってもやりませんでした。それでどこそこさんから貸して下さったから、それをまあ着せて卒業式にやりましたというお届けがあったんです。
「もしこれがお祖父さんお祖母さんの時代であったら、それこそ可愛い孫のためにどげな高い着物でも買うてやって、卒業式に臨ましたことであろうけれども、本当にまあ情けない思いをするといったようなことではおかげにならんばい。おかげでね、親がこういう逼迫した修行をさせて頂いとりますから、おかげで子供も修行してくれますというような、言うならば四(し)を四(よんで)頂く頂き方にならなきゃあいけないよ」というて申しましたことでした。それを話しながらふっと私は私の修行中のことを思ったんです。 そしたら昨夜から今朝にかけて、そのことばっかり、教祖様が「おかげを受けた時のことを忘れなかったら、おかげはいつまでも頂ける」という意味のことを言い残しておられますね。「おかげを受けた初めのこと。おかげで病気が治りました。おかげでああいうときにああいうおかげを頂いたということを忘れな」ではなくて、その元です。まあいっちょ私共が今日こうやっておかげを頂いとる。 丁度私が福岡の一番修行の激しい時分でした。大変暑い日でした。外から帰って参りましたら家内が、今の若先生と豊美ですたい。長女と長男。豊美が小学校の一年生でしたから、勝彦は今の若先生は五歳の時でしたでしょう。もう二人を前にしてから、くいにじるように言うて怒りよりますもん家内が。「どうしたつか」ち言うたら、そりがあなた、キャンディー売りが来た。それでキャンディーを買うと言うからね、あの十円札を持たして、あの五円のつと十円のつがあった。だから「五円のば一本買うておいで、そうすとお母さんがここで分けて上げるけんで」と言うたそうです。ところが十円札ば持って行っとるもんで、キャンディー屋は十円のつばやったわけです。そりで、「あげんお母さんが言うとったつに、どうして五円のつば買うちこじゃったつの」と言うて、その十円のキャンディーを二つにこうやって割って皿に入れて渡しながら怒っておるところに帰ったんです私が。
まあ私はそれを聞きながらね、本当に親がギリギリの修行さしてもらいよりますからね、子供たちも本当にこうやって修行さして頂いとると思うて、早速御神前に座らせて頂いて、今言う高橋さんに話したような、親がギリギリの修行をさして頂よりますから、おかげで子供達も良い修行をさして頂いて有難うございますと言うてお礼を申し上げたことを思い出したんです。
だから、それを忘れなかったらということだと思うですね。おかげを頂いた時のことを忘れないじゃなくてね、そういうおかげを頂くことのためのあの修行時分ば思うたら、なら長女と勝彦がそのことを覚えておるかどうか知りませんけれども。自分達が大きくなる時にはああじゃった。小学校に行くとに傘がなかったから、傘を持って行かなかった時代があった時代のことをね思うたら、例えば私の方の子供たちがおかげ落とすことはないで
しょうね。
そういうね、私はとこからね、信心が育ってくる。そういうところからおかげで徳を受けて、なら今日まあ、丁度孫達が小学校今度一年生に行くわけですが、本当にもうそれこそ結構けだらけの中にね、あのおかげを頂いておりますが、そのお父さんどんが育つ時にはそうだったということを子供達にでも言い残しておけれる。こういうことがあった。そのことを思い出したら、身が引き締まるような信心をさして頂いたら、おかげはいつも落とすことのないおかげを頂かしてもらう。言うなら徳の上に言うなら立ち上がるところのおかげ。そういうねおかげを私は皆頂いてもらいたいと思う。おかげを受ける。徳を積んで、徳の上に言うなら立ち上げられるところのおかげ。
それで言うなら、例えば高橋さん所で言うならば、不徳の上に立ったものが、人の真似の出来ないような信心によって、それを神様が取り壊しを始めて下さった。そして昨日、私があのサボテンのお知らせですね。例えば「どういう中にあっても高橋、三福寿司の前には合楽が保証する」と言う意味のことを頂いたんです。合楽が保証するということは、天地が保証して下さるということです。どうでしょう、皆さんがせっかく合楽にご縁を頂いたんじゃから、どんな場合であっても合楽が保証して下さるというようなお徳を受けたら素晴らしいと思うですね。天地が保証して下さる。
あちらのお母さんももう随分弱っておられます。昨日挨拶に見えられました時に話したことでした。「本当に自分達の時にああしてもう言うならば一生懸命儲けだしてこうじゃったのが、高橋の代になって、さあ大学は出た。そしてからまた親父の跡を継いでお寿司屋さんになったが、本当にもう店でも何でもこの人がつぶしてしまうというような思い方もあろうけれども、お母さん心配しなさんな。ああた方のことは神様が保証するち言いよんなさるけん。いちょん心配はいらんばい」ち申しましたことでした。
だから、神様から保証されるということは、神様の御信用がなからなければ保証はなさるはずはないでしょうもん。皆さんが例えば、保証人に立たれる時には、その人を信用するから保証人にでも立つのでしょうもん。神様が保証、なら三福寿司に高橋定利を言わば信用しなさるから、「よし俺が保証に立ってやる」とまあ言うて下さるでしょうもん。
言うならば今日の御理解から言うと、神様の言うならば、親が残した財産、それにはばい菌が付いとったけん、今苦しみよるのだけれども、そのおかげで本当のことが分からして頂いて、徳を積むことを、その時分に徳を積むことを覚えた。そしてそのお徳のおかげで次の三福寿司がそこに立ち上げられたというようなおかげを頂く。もう実に間違いのない神様の言うならば神の掟、神の法則の上に立って、それがこう裁かれ、そしてそこから許され、そしてそこから保証を受け、天地が保証になって下さるという程しの言うならば徳を積んで、言うならばおかげを頂くことこそが、言うならば「徳積みて栄える家や菊の花」ということになるのじゃないでしょうかね。
今日の御理解を、ただあの心で殺すとかね、形で殺せば掟があって、それだけ罰をされるけれども、「心で殺すのが重い罪じゃ」とおっしゃるけれども、知らぬこととは言いな
がら、とにかく金、金、金さえあれば良いと言うて商売をした。どんどん儲かった。こげん儲かっても良かろうかというように繁盛した。その繁昌を子供に譲った。ところがそれは悪徳ではないけれども、不徳の上に立った財産であった。だから子供が苦しんだ。ところが苦しんだ子供がおかげを頂いて、合楽に縁を頂いておったおかげで、その苦しみが全部修行に取替えて下さった。そして天地が保証するぞと言われる程しのなら力を頂いて行けたという。
今後の例えば高橋さんのおかげを受けられた時に、言うなら見事な菊の花が咲いた時にはじめてそれが言え、また分かることだと思うんです。神様はそのように、だから厳しいのです。それこそ誰も知るまいと思うけれども、徳、不徳というけれども、不徳の上に財産を残すとか、おかげを頂くとか、どんなにあやふやなものか、またどんなにそれがそのことによって子供が難儀苦労しなければならないものかということを本当に分かったら、お徳を積んで人にも喜んでもらいながら、言うならば財産が出来る財産を目指して頂きたいと思うですね。
どうぞ。